事務所55周年を迎えます!
事務所創立55周年について、簡単に、個人的感想などを述べてみます。
事務所創立
事務所が創立されたのは今から55年前の1961年7月です。あの「60年安保」闘争の前後に刑事弾圧事件等が相次ぎ、このような事件に対応できる集団事務所を建設して欲しいとの京都の労働界や民主的諸団体からの要請を受けての開設でした。このため事務所は当初から、働く者の権利と中小自営業者の生活を守り、民主主義を擁護する、ということを活動の目的としてきました。
以後、事務所は、一般の事件活動と併せて、多数の弾圧事件や労働争議に取り組み、不当な課税処分から納税者の自主申告権を守る闘いや、広く悪法に反対し、民主主義を守るための様々な活動を展開してきました。
活動の拡大に応じ、事務所の陣容も徐々に強化されてきました。
事務所への入所
私は、創立15年目の1976年4月に入所しました。金沢の事務所で修習していましたが、第一法律事務所で修習していた修習生とのいわばバーター取引の結果でした。私が入り事務所の弁護士は11名となりました。尤も、それまでに幾人かの事務所員は既に各地域からの要請に応じ、大津市、舞鶴市、伏見区などで新たな事務所を開設していました。私の入所時は、草創期の混乱と基盤確立の時期を終え、いよいよ発展期に入ろうとしていた頃でしょうか。
今では考えられない闘争
争議はまだドラスチックな事件が多くありました。
ある自動車教習所の事件では、組合役員は身分保全の仮処分で勝っても、直ちに別の理由で予備的解雇され、更に仮処分を申し立て、更に予備的解雇されるなど、第5次解雇まで行われました。裁判で勝っても職場になかなか戻れず、職場と地域での運動で会社を包囲しなければ争議を勝利させることはできませんでした。この意味でまさに「主戦場は法廷の外」にありました。
刑事・弾圧事件の中には、未だ残っていた旧陪審法廷で審理が行われたものもありました。傍聴席は鈴成り状態で、腕章を着用した者も多く、時には傍聴席から挙手をして腕章を規制しようとする裁判長と激しくやり合う組合員もいました。
また、宮川争議での刑事事件では、開廷時、近くの御所に装甲車2台と機動隊員100名ほどが待機し、事あらば何時でも関係者を逮捕するとの構えがとられたこともありました。
三菱重工や製紙など、大企業職場での思想・信条による賃金・昇格差別の是正を求める訴訟も始まっていました。原告団は、それまでの、「差別されることは活動家にとっての勲章であって、国家権力に差別の是正を求めるのは間違っている」との考えを克服して立ち上がった人達でした。このような事件では法廷での闘いと職場の運動をどう結びつけて前進させるかということが常に争議団との打ち合わせの重要な課題でした。
以上の状況で、当時は文字通り「大衆的裁判闘争」とすることが求められました。
その後、今日までに、労働法制は大きく変えられ、労働者はまずは「非正規の壁」等を突破することが必要となっています。
事件の様相の変化と活動分野の拡大
時は流れ、時代によって、労災・職業病、過労死、地上げ、サラ金・消費者被害、まち壊し、情報公開請求、公金不正支出事件など、多様な分野での活動が必要になってきました。事務所としては新たな事件についてもその都度、集団事務所としての特質を生かし、率先して取り組む努力を重ねてきました。
また、自由法曹団のみならず、幅広い弁護士が参加している弁護士会や日弁連の中でも、役員や委員を派遣し、社会的に重要な役割を果たしてきました。
振り返って
これまで事務所に在籍した弁護士は48名となっています。所員として経験を積み、地域の要請に応え頑張っている元所員は多くいます。現役は18名ですが、つくづく事務所は時々に在籍する所員のためにあるのではないということを思います。事務所としてこれからも信頼に足る活動ができるかどうかは、皆様からの叱咤激励とともに、何より所員自身の自覚と戦闘性にかかっているのでしょう。改めて所員一同、気を締め直してさらに進んでいくことを決意しています。
1977年頃 弁護士 村山 晃
1976年頃 府庁前 弁護士 森川 明