まきえや

残留孤児問題始まりの地へ

[事件報告(1)]

残留孤児問題始まりの地へ

中国残留孤児国家賠償請求京都訴訟

2003年9月24日、京都、奈良、滋賀、大阪、和歌山の「中国残留孤児」90名が、京都地裁へ国家賠償請求訴訟を提訴してから1年が経過した。

この訴訟は、孤児達が、第2次世界大戦終結時、肉親と死別・離別して中国満洲地方に長期間取り残されたところ、帰国事業を早々と打ち切り、国交回復後も孤児達を外国人扱いし身元保証人を要求するなどした国の政策によって、長く日本に帰国することができず、現在も日本語を話すことができず、生活保護に頼らざるを得ない困難な生活を強いられていることに対する国の責任を明確にし、国をして原告ら孤児達に人間らしい生活を保障し、あわせて戦後58年間にわたる原告ら孤児達に対する人権侵害に対して正当な補償をさせることを目的としている。

そして、この夏、村山弁護団長、藤田事務局長を始めとする残留孤児京都訴訟弁護団の有志8名は、大阪弁護団、名古屋弁護団の弁護士や支援者の方など13名とともに、残留孤児問題の始まりの地である旧満州地方、現在の中国三省(黒龍江省、吉林省、遼寧省)へと赴いた。

ハルビンへ

一行は、8月17日に関空を立ち、大連空港を経て、空路、旧ソ連との国境に位置する黒龍江省の省都ハルビンに到着した。日本を出た時の暑さとはうってかわって、非常に過ごしやすく、真夜中のハルビン空港は、少し肌寒いほどであった。真冬には、零下30度から40度にもなるという。

翌日、早速、日本人の公墓が設けられているという方正県に向った。方正県は、残留孤児の家族の多くが送り込まれた旧ソ満国境の開拓団から、敗戦時、多くの日本人が結集してきた地である。方正までの道すがら黒龍江省の地図を広げると、牡丹江、ジャムス、依蘭など、残留孤児達の口から聞かされた地名が並ぶ。方正に結集した残留孤児の家族達日本人は、日本へ帰るために、まずはハルビンを目指したはずであるが、我々はまさにその道を逆に辿っているのである。

ただし、方正までの道は高速道路が整備されており、大型バスに乗った我々の行程と孤児達が辿った道のりのなんと違うことであろうか。道路のすぐ側には、トウモロコシ畑や田んぼが広がっている。59年前、孤児達は、敗戦と同時に襲いくる匪賊達の襲撃やソ連軍の攻撃を避け、この背丈ほどもあるトウモロコシ畑の中を逃げまどったのである。そして、ハルビンに辿り着くまでに命を失った孤児の家族達の遺体が、今も弔われることもなく、この窓の外に見える景色のどこかに眠っているのであろうか。

方正には、2時間ほどで到着した。高速道路が急速に整備されているとはいえ、道路を掘り返しているのが、機械ではなく人間の手であることにはおどろいた。舗装も完全ではなく、時としてバスはバウンドし、我々の体は、座席から跳ね上がった。

出典 証言『冷たい祖国~国を被告とする中国残留孤児たち』坂本 龍彦 著

墓前にて

方正で、野菜たっぷりの地元料理の昼食を取った後、方正外事弁公室の陳副主任の案内で方正郊外の日本人公墓に向った。今度は、舗装されていない道路をバスで20分ほど走る。

1945年8月にこの町だけで3000人の日本人が死亡したということであり、この地に避難してきた日本人達は、村人達の家に身を寄せるかあるいは地面に穴を掘るなどして零下30度以下にもなる冬を越したという。

その後、死屍累々の有様を見かねた残留婦人が、周恩来の許しを得て日本人公墓を建て、現在は、中日友好園林として整備、管理がされていた。丁度、中日友好園林の文字が掲げられた門が修復されているところであった。

公墓以外に、残留孤児の足跡がわかるものを見たいと思ったが、このあたりに開拓団の本部があったという地を通り過ぎることしかできなかった。急成長を遂げる中国の中にあって、のどかな田園風景が広がり、それほどの変化はないように思われたが、やはりあれから60年が経とうとしているのである。この旅で、我々は何か有力な資料をつかむことができるのであろうか、一抹の不安を感じた瞬間であった。

日本の地を踏むことなく、無念の死をとげた方正の日本人達の公墓前にて

国の責任は明白

翌日は、「悪魔の飽食」で有名な731部隊の資料館(罪証陳列館)を見学した後、黒龍江省対外友好協会を訪問し、1970年代から日本人の帰還について担当してきた公安室の方のお話を聞くこととなった。今回の旅の中でも、我々弁護団が最も期待していた会談である。何しろ、被告国側は、残留孤児達を早期に帰国させようとしても、中国側の協力が得られなかったという主張をしていたからである。

我々としては、1958年には孤児達の帰国事業を打ち切り、日中国交回復後も残留孤児達の帰国に尽力しなかったのは、国(日本)であるという証言を得たいと考えた。結論として、中国側の回答は、日本が孤児として認めれば遣送するのが原則であり、主導権は日本にあったというものであった。日本が主導権を持つのは当然のことである。結局、日本政府は中国に対して、積極的な協力を求めはしなかったのである。

これは、8月22日に、瀋陽で会談した元外交官で大阪の日本総領事館において政治部門を担当していた遼寧省対外友好協会副会長の陳氏も強調されたことである。「人道的見地から、日本政府は残留孤児を救済すべきである」と。

仮に、敗戦後の内乱による混乱や国交回復後も文化大革命による政治的混乱などによって困難が伴ったこととしても、自国民を可及的速やかに帰国させることが国の責任であることは、誰の目にも明らかなのである。

勿忘(忘れるなかれ)

その後、我々は、長春では偽満州当時の建物やラストエンペラーの偽皇宮陳列館を、撫順では日本軍が村人3000人を虐殺した平頂山遺跡や撫順戦犯管理所を、瀋陽では9.18事変博物館や柳条湖跡や公文書館を、大石橋では万人抗などを見学した。

どこに行っても、日本が中国に対して行った残虐行為に対して、勿忘の文字が刻まれていた。不十分ながらも歴史では学んできたはずであるが、平頂山の記念館に残された何百何千の遺骨の山や731部隊の本部跡を実際に前にすると、言葉もなかった。日本が行った事実を改めて突き付けられ、どこにいても自分が日本人であることに肩身の狭い思いをしたという点で、決して楽な旅ではなかった。また、帰国前日の瀋陽から大連までの道のりは、バスで10時間以上、列車でも5時間というハードな道のりであった。

七三一部隊のボイラー室跡

ただ、苦しいことばかりではなく、この旅で得られた楽しい思い出や日本ではできないような数多くの体験は、ここではとても書き尽くすことができない。

ハルビンは、東洋の小さなパリと称されるだけあって、本当に美しい町だった。ツアーで仕方なく行ったおみやげ店の前には、中国の裁判所があり、入ってみたい衝動に駆られたが、日本の裁判所のように誰にでも「公開」されているわけではないとのことであった。撫順の露天掘りは、日本では想像することもできない規模であり、露天掘りの鉄道作業に従事していた家族を事故で失ったという孤児の言葉を初めて理解することができた。長春では、ラストエンペラーが避難したという防空壕にも入ったし、瀋陽の故宮にも行くことができた。

また、移動中の中国の列車には、お湯が入ったポットが置かれており、現地の人と同じように駅弁代わりにカップラーメンを食べるという体験をした。瀋陽では、かの日本大使館の近くまで行くことできたし、数時間局地的に降った雨で道路が水浸しになり、まるで川の中をバスで走るような経験もした。どの都市でも、おびただしい車の数にもかかわらず、信号は全くあてにならず、車の間をぬって道路を横断し、時に道路の中央で立ち往生するという技術を身につけた。日本で披露することができないのが残念である。

そして、何より、8日間、食の中国をこれでもかというほど満喫した。朝食が終わり、フルコースの昼食が終わると、すぐに夕食という具合に、空腹を感じる間はなかった。初日には、いくつもの皿に山盛りで出される料理を食べきれることができなかったが、旅が終わるころには、ほぼ全てを平らげることが出来るようになった。さすがに連日の中華料理三昧に食傷気味であったため、餃子、それも中国ではあまりない焼き餃子が食べたい、麺が食べたい、デザートはないのか、おかゆを出してくれなどとまるで子どものようにガイドの曹さんを困らせ続けた。念願かなって、ハルビンの昼食の席にのぼったきしめんのような麺は大鍋一杯の代物で、ほとんど食べることはできなかった。そして、都市を移動するたびに、各地の地ビールも味わうことができた。

次回中国を訪れることがあれば、ぜひ現代の中国を楽しむ旅にしたいものである。

決意

最後に、今回の旅行で、この訴訟に形として提出する成果が得られたかどうかは、不明であるが、残留孤児達が辿ってきた道のりがいかに困難なものであったかということが、弁護団に実感として得られたことは間違いがない。日本人に侵略された国の人々が見捨てなかった残留孤児達を、日本の国が見捨てていいはずがない。日本人に対する憎しみが渦巻く中国で、孤児達を大切に育ててくれた養父母達の恩情はもちろん、ある者は小日本鬼子とののしられ、虐待されながら、ある者は労働力として酷使されながら、ある者は童養女(トンヤンシー)として個人の尊厳を冒されながらも懸命に生き抜いてきた孤児達のことを、このまま忘れ去るわけにはいかない。

必ずや原告ら孤児達の人間らしい生活を勝ち取るべく、決意を新たに、我々一行は大連空港を後にした。

日中の平和を祈念して、平頂山の遺骨に花輪をささげる

「まきえや」2004年秋号