まきえや

いま、交通事故被害者は

いま、交通事故被害者は

検察官からの電話–さらに疑惑が深まる

交通事故は、いっこうに減りません。一つには「加害責任の甘さ」があります。もう一つは、「賠償の甘さ」があります。後者は、保険会社の問題に帰するところが多く、必ずしも加害者そのものの問題ではありません。しかし、この二重の「甘さ」で、日本の事故の被害者は、決して十分な癒しと補償を受けることができてこなかったのです。しかし、少しずつ変わってきているように思われます。

変わってきた事故捜査

刑事事件で、「日本では加害者が保護され、被害者が放置されている」とは、最近マスコミで頻繁に使われる言葉です。「被害者が放置されてきた」ことは間違いがありませんが、決して「加害者が保護されてきた」とは思われません。その前に、誰であっても一方的に「犯罪者」と決め付けられない、という原則を忘れてはいけません。ある意味では、「容疑者」は、もっと保護されなければならないのです。例えば交通事故でも同様です。きわめて軽微な交通違反の捜査でも、理由の乏しい突然の逮捕など、警察の権限濫用は、決して少なくありません。もっとも、この「稿」は、容疑を受けた人の人権を論ずることを目的にはしていませんので、別な機会にゆだねたいと思います。ここで問題にしたいのは、「被害者の放置」であり、交通事故の分野でも、これまでの「被害者の放置」は、目にあまるものがありました。事故の詳しい模様や捜査の状況を尋ねに行っても、まともに取り合ってもらえないことが多々あったのです。結局、捜査機関の「官僚性」「権力性」から、加害者であれ、被害者であれ、一般市民は、その「対象」でしかなく、主体的にその権利が守られ、それにアクセスすることから遠のけられてきたのです。特に、「被害者の権利・アクセス」は、現在大きな市民的課題になってきています。

私は、最近その変化を実感した事件に遭遇しました。

事件は、日没後間もない、琵琶湖の湖岸道路(優先道路)とそこへの進入道路との三叉路で発生しました。雨模様と工事中とで、暗く見通しが悪い状況でした。湖岸道路に進入しようとした自動車の運転席部分に、湖岸道路を南進してきた自動車が衝突し、進入車両に乗車していた男性が死亡したのです。警察は、形式的な判断から、優先道路に進入してきた車が悪いという見方をしたと思われます。おざなりな実況見分が行われただけで捜査は終わり、遺族が警察に状況を尋ねても、「きちんと捜査をしています」というだけで、何一つ、具体的に答えて貰えませんでした。

事態が大きく動いたのは、検察庁に移ってからでした。

検察官からの電話

「今度、全く同じ状況下で、実況見分をやりなおします。」という電話が、私のところにかかってきました。こちらの問い合わせに対してでなく、検察官の側から、このような丁重な電話をもらったのは初めてのことでした。そして、検分を終えた後「検分の結果、加害者の過失が明らかになりました。略式起訴をしますから、捜査の結果は、閲覧して確認し、被害者の方の役に立ててください。」という趣旨の電話を頂戴したのです。

当時、加害車両のライトは、スモールランプしかついていなかったのです。この運転手は、保険会社の報告書には、そのことを申告していながら、警察では、ライトをつけていたかのような供述をしていたのです。ここにも、警察が十分捜査をしていなかった痕跡を伺い知ることができます。遺族が入手した保険会社の調査報告書の記載をもとに、検察庁は、事情聴取でこのことを確かめ、さらに、もしもスモールランプだけだと現場での見通しはどうなるのかを、現場の状況を正確に再現しつつ、実況見分で確認をする作業を行ったのです。その結果、「ライトを付け忘れ、被害車両を優先道路に進入させた過失」を認定して、起訴をしたのです。

検察庁に移ってから、検察官は、遺族の叫びを真摯に受け止め、それに積極的に対応し、進んで再捜査をしたことも、「変化」を感じさせるものでしたが、何よりも、検察官の方から、その情報を丁寧に被害者側に伝えてくれたことは、私にとっては、「大きな変化」を実感させるものでした。被害者が、どれだけ辛い思いで、捜査を見守っているのかについて、検察官が、心を砕いてくれたのです。その「思い」こそ、これまでの「官僚性」にもっとも欠けているものだと思うのです。

低い保険会社の補償水準

被害者への補償水準の低いことも交通事故の大きな問題です。特に保険会社の示談はひどいものです。先だって、私が示談したケースでは、当初の保険会社の提示は、三千数百万円でした。私が代理人となって交渉した結果、これが七千数百万円になったのです。その格差は、一体どこから生まれるのでしょうか。もとより、このケースでは、最終的な示談金額でも決して十分だったとは思われませんが、保険会社の当初の話に従っていたら、大変な目にあっていたのです。

一つは、「過失相殺」です。

違法開発業者の反撃

先に紹介した事件では、保険会社は、最初から「被害者側の過失が8割」と決め付け、補償は、自賠保険の被害者請求で処理せよと迫ってきたのです。しかもその自賠保険も、過失減額をするというものでした。このケースでは、検察での捜査の結果を持って自賠の調査事務所と交渉し、先ず、過失減額をさせず、満額の支払いをさせました。そして、今民事訴訟で、過失割合についての熾烈な争いを展開中です。死亡した被害者の場合など、被害者不在で、過失割合が決められる恐れがあり、ここでの争いは、きわめて重要です。

二つは、慰謝料です。死亡の場合に、一千数百万円から三千万円へと幅があり、大きな差ができます。それにしても1人の人が亡くなって3000万円でも低すぎると思われませんか。

三つは、逸失利益です。特に、子供の場合には、現実の収入のないことと、収入の予定が随分先になることなどから、収入をどうみるか、中間利息をどう控除するかということを巡って、金額が決定的に違ってきます。後遺症の場合は、その等級や持続期間をどうみるかで大きく異なってきます。

ここでは、これ以上詳しくは申し上げませんが、他にも補償に影響を与える諸々の問題があります。正当な補償になるよう、被害者の権利がもっと強調されてよいと思うのです。

弁護士の役割

本稿で紹介した事例でも明らかなように、捜査に被害者の立場を反映させることにも弁護士の果たす役割は大きなものがありますが、補償の問題では決定的です。交渉如何では、倍近い金額になることは決して少なくありません。冒頭紹介した事例は、過失相殺で大きく争いのあった事例ですが、途中で紹介した補償金額を倍にしたケースは、特段の争いはありませんでした。では何が違ったのかといえば、「保険会社基準」と「弁護士会基準・裁判所基準」との違いなのです。この場合、弁護士に依頼をすることが、即、補償基準を引き上げることに繋がるのです。私たちは、全体的な補償基準の引き上げと、多くの被害者が弁護士にアクセスしやすいようにして、正当な補償を確保されることを呼びかけています。

「まきえや」2001年春号