まきえや

小学校の先生 過労死と認定される

小学校の先生 過労死と認定される

-内藤労災事件で完全勝訴判決-

京都地裁判決

京都地裁は、2000年1月28日に京都市立梅屋小学校の教諭であった内藤昭一さんの過労死について、公務上と認める完全勝訴の判決を言い渡しました。内藤さんは、1989年2月21日の早朝、妻と幼い子供2人を残して39歳という若さで急性心不全で死亡されました。遺族は、内藤さんが過労死したとして、公務上の認定を請求していましたが地方公務災害補償基金京都府支部長(荒巻禎一)が公務外と認定したため、提訴していたものです。

認定された労働実態

地裁判決は、内藤さんの労働実態や職場環境を次のように正確に認定し、その職務は過重であったと判断しています。

まず、梅屋小学校における職場環境について、1988年度当時の梅屋小学校の全学級数は9、学級を担任する教員が9名であり、学級担任が教務主任を兼任せざるを得ない状況にあり、しかも、5名の転入者があったため、内藤さんを含む前年度からの在籍者4名の教員に負担のかかる職場環境であったと認定しました。

そして、内藤さんの校務分掌について、内藤さんが2学年の学級担任に加え、教務主任、教科体育主任、同和教育主任を含む17の校務分掌を担当したこと、教務主任は中間管理職的地位にあり、管理職と一般教職員との間にあって双方に対して神経を使う立場にあったこと、同和教育主任としての職務はその対応を誤ると差別問題に発展しかねないため神経を使うものであるうえ、研修会等の実施回数も多く多忙であったこと、1988年度は梅屋小学校が自主研究の発表校であり、教務主任兼教科体育主任としてその成功にむけて中心的な役割を果たしたこと、内藤さんが担当した2学年は単学級であり学級担任の職務を一人で行わなければならなかったことから、このような校務分掌は他の教員に比べて過重なものであったと認定しています。

さらに、判決は、内藤さんの自宅での持ち帰り仕事が常態化していたこと、特に2学期と3学期には自宅での持ち帰り仕事は連日数時間程度に及んでいたことを認めています。 このような内藤さんの過重な労働実態を、裁判所は、前任の教務主任や同僚の教員の証言、内藤さんの妻の証言、残された数多くの冊子やプリント類、週案に書かれた校長のコメント、さらには内藤さんの妻が苦労してコピーしたワープロのインクリボンに残された文字などから事実認定をしたのです。

内藤さんの死亡は過労死

そして、判決は、1988年4月以降の梅屋小学校における多忙な職務の遂行による持続的な身体的疲労及び精神的ストレスの蓄積が血管の病変等を自然的経過を超えて発症・促進させ、1989年2月21日午前6時ころ、急性心筋梗塞を発症し、心不全により死亡するに至った、すなわち、内藤さんの死亡は公務上の死亡(過労死)であると結論付けたのです。

この判決は、教師の職場環境や労働実態、特にストレスの溜まる職場であり、持ち帰り残業も常態化していることを認めたもので、今後の教師の職場環境や労働条件の改善にとって重要な意義を持ちます。

この地裁判決に対し、地方公務災害補償基金京都府支部長は2000年2月10日、大阪高裁に控訴しました。内藤労災事件は引き続き大阪高裁を舞台に闘われますが、勝訴判決が確定するまで皆さんのより一層のご支援をお願いする次第です。

判決報告集会

内藤労災以外にも、昨年から次々と勝利判決を勝ちとり、いずれも確定しています。

  • 小谷労災事件(養護学校教員の頚肩腕症候群)
  • 西垣労災事件(養護学校教員の背腰痛症)
  • 重田労災事件(学校給食調理員の頸腕症)
「まきえや」2000年春号