対談:「第一法律事務所の創設期」を語る・渡辺馨弁護士に渡辺輝人弁護士が聴く
渡辺 輝人(弁護士) |
渡辺 馨(弁護士) |
事務所の創設期
輝人:馨先生は京都家裁で書記官をされていたので、弁護士19期で1967年入所。32歳ですね。まだ事務所創設から6年ですが、その頃の様子はどうでしたか。
馨 :あの頃は衣棚通の吉田ビル( 今の京都民報社)に事務所があったんだ。健康管理のために毎日夜11時になったら目覚まし時計が鳴ったんだけど、忙しいからその後も帰れへんかった。その時間になると、事務所の前の通りを流しのラーメン屋が笛を吹きながら来るから、ぱーっと降りていって、みんなで食べていた。あの頃は歳では僕が2番目に年長で若い事務所だったから無茶がきいたんだなあ。
輝人:私が今33歳ですから若いですね。この頃の特徴的な事件は何でしたか。
馨 :全逓伏見郵便局弾圧事件をはじめ労働弾圧事件かな。これは全逓労組から分裂した第二組合の組合員に対して伏見郵便局の全逓労組が全逓に戻るように説得していたら、第二組合が妨害してきた。抗議してたら「暴力事件」をでっち上げられたんだ。でも判決は「有形力の行使はあったけど可罰的違法性がない」で無罪。確定したんだ。あの頃は可罰的違法性論で結構無罪を取ったんだけど、その後、この理屈は最高裁で否定されてしまったから、昭和40年代はそういう意味でいい時代だった。
輝人:可罰的違法性論は刑法の教科書でしか見たことないです……。
馨 :全自交刑事弾圧事件もあったね。これは1961年の春闘でタクシー労働者が企業の枠を超えて100日ストを打ったのに対して、使用者側が次々に事件をでっち上げ、検察も一体になって起訴してきたんだ。捜査段階は弁護士以外接見禁止の中、繰り返し接見して、被告人たちも完全黙秘を貫いた。起訴された刑事訴訟で弁護人になったんだけど、被告人調書は「黙して語らず」ばかりでね。起訴された20名中、15名は無罪という結果だった。
輝人:同時期の全自教(自動車教習所の組合)の組合つぶしの事業所閉鎖事件では警察の捜索もあったと聞いていますが。
馨 :捜索が入る情報が事前に入ってきてね。弁護団も組合の人たちと酒を飲みながら泊まり込みで待機してたんだけど、朝、本当に何百人もの機動隊に取り巻かれたんだよ。この事件では、組合活動家の逮捕に対する抗議宣伝を府警本部前でやったらその場でさらに組合員が逮捕されたこともあったんだけど、裁判所が公開の法廷で検察の勾留請求を却下するなんて珍しいこともあった。
輝人:京都橘女子学園の解雇事件も馨先生が入所された直後の事件ですね。
馨 :これは組合の委員長だった教員以下7名が生徒に「原爆許すまじの歌を教えた」という理由で解雇された事件。生徒、父母、卒業生までが支援してくれた。始業式に学園がはったピケを生徒さん数百人が抗議して破る状態だった。組合が校舎の中に闘争本部を作ってね。僕も相談に乗って一緒に闘ったんだ。結局、訴訟も労働委員会もせずに1年後に職場復帰した。第一事務所の活躍を寿岳章子さんにも誉めてもらって嬉しかったよ。
輝人:日本が今よりも熱かった時代ですね。そういう連帯感がこれからの時代にこそ必要ですよね。広小路にあった立命館大学に機動隊が捜査に入ったのもこの頃ですね。
馨 :すでに京大にも警察が捜査に入っていたんだけど、立命館はまだ入っていなかったんだ。正面の門は学生がバリケードを作って物理的に入れない。西門は学長以下、教授、学生が「大学の自治を守れ」と抗議の座り込みをしていた。このときは警察がくる、というので大学の理事者から第一事務所に弁護士の出動要請があったんだよ。僕は西門の前で警察を説得したんだけど、最後は機動隊に脇を捕まれて神社の所までヒョイっと連れ出されちゃった。
輝人:学問の自由で警察の捜査を拒否するのも今では失われてしまった感覚ですね。70年の知事選では亀岡教組の弾圧事件があったんですね。
馨 :あれは、地元の小学校の先生二人が民主府政の会のシンボルマークを配りながら、国道9号線に信号を設置しろ、という署名をやっていたら、蜷川支持の選挙運動だといって逮捕された事件だった。一審判決は一人無罪、一人は罰金だったけど、控訴して、高裁では二人とも無罪を勝ち取った。
府議会議員への立候補
輝人:その後、馨先生は1973年から共産党の府議会の候補者活動を始められましたね。最初は立候補する気が無かったそうですが。
馨 :そうなんだ。自由法曹団京都支部の事務局長だったし、弁護士はやりがいがあったから断ってたんだけど、ついに府知事の蜷川虎三さんに呼ばれてね。「加地さん(自民党府議、弁護士)にいじめられている。出てきて助けてほしい」と言われて立候補を決意したんだ。蜷川さんは忙しい人で、滅多に会わないから緊張したよ。
輝人:初当選は75年の統一地方選挙でしたね。
馨 :74年の最後の蜷川さんの知事選のとき、選対からは「宣伝は蜷川4、渡辺1でやれ」と言われた。でも、実際の街宣は「渡辺4、蜷川1」でやったよ(笑)。そのころから始めて、議員になってからもずっと、火曜日、金曜日には必ず阪急桂駅で定点宣伝をやってね。京都新聞に誉められたんだ。今は定時定点の宣伝はやってないなあ。地べたを這う議員活動のスタイルが弱くなっている。結局、75年の選挙では旧右京区で当選したんだ。
輝人:そこから3期12年の間、府議会議員を務めたんですね。初期の議員活動で記憶に残っている事はありますか。
馨 :南山城村のゴルフ場開発問題かな。開発業者が蜷川さんに献金したことについて、野党が蜷川府知事を攻撃するために議会内に特別調査委員会を作って、収賄疑惑を仕立てようとしたんだ。委員長は野中広務さんだった。僕は与党から委員になって証人喚問もやった。結局、ゴルフ場建設自体が認可されなかったし、疑惑もない、という結論になった。この時は証人喚問の様子が夜の11時からテレビ中継されたりして、大きな話題になったよ。
輝人:事務所が府議会議員を擁していたことは今でも誇りですね。さて、議員時代のことも伺いたいのですが、紙面の関係で無理なようです。最後に今、事務所が50年を迎えてどう感じていますか。
馨 :45年弁護士をやってきて、僕の先輩は誰もいない状態になった。ここ10年ほどは体調を壊して十分に仕事ができなくて残念な事も多かった。体調を崩してからは相談事じゃなくてお見舞いばかりだしね(笑)。けど、肺ガンで両方の肺を切ってまだ生きてるから、奇跡みたいなもんだ(笑)。弁護士では第一事務所だけでやってきて、あと何年できるかわからないけど、事務所に骨をうずめたいと思う。
輝人:60~70年代の運動は、今から見ても参考にすべき点がすごく多いですよね。私はまだ弁護士歴6年ですが、事務所の歴史、記憶を次世代に承継していけるように頑張りたいと思います。今日はありがとうございました。