中国残留日本人孤児事件─解決へ
孤児たちに訪れる初めての戦後
終戦から62年経った今も、未だ戦争の終わらない人たちが多くいる。敗戦直後、幼くして中国満州に独り取り残され、長期間、帰国がかなわず、ようやく日本に帰国後も、冷たい日本政府の施策に苦しめられてきた中国残留日本人孤児の人たち。その人たちが、ようやく「戦後の平穏」を手に入れようとしている。
そのためには、4年もの裁判闘争が必要だった。全国15の裁判所で、2200人の人たちが裁判を闘ってきた。京都も裁判闘争では原告109人をかかえ、事務所は、弁護団活動に力を入れてきた。その裁判は、近く結審し判決を迎えることとなっていた。
「一日も早く全面救済を」「老後の安心した生活を」「人間の尊厳の回復を」と孤児たちの必死の訴えは、裁判所で国を追いつめ、国が動いた。これまでの国の施策が極めて不十分であったこと、国は、それを抜本的に見直し、孤児の人たちの要求に沿った支援策を取りまとめたのだ。順調にいけば、秋の臨時国会で立法化される運びになっている。
将来に向かっては、ようやく人間らしい生活を送れる体制が整う見通しとなった。これからの私たちに必要なことは、こうした孤児が何故生まれたのか、そのような悲劇を繰り返させないために何が求められているのかを、常に問い、そのための不断の闘いを続けることだと思う。
4年もの裁判を闘って
2003年9月の京都地裁への提訴から4年、孤児達の「我是誰(私は誰)?私は何人ですか?」という、まさに日本人としての尊厳をかけた問いかけに応える日がきたことを心から嬉しく思うとともに、この裁判を一緒に闘うことができたことに感謝しています。ただ、この日を迎えることなく亡くなってしまった原告がいることが残念でなりません。裁判の途中で病気になり、退院してきた時には、「先生、私元気になりましたよ」と電話をかけてきてくれたKさんの声を今でも忘れることができないのです。
法定で証言をしていただいた原告の中には、打ち合わせをしていると、もうこれ以上話したくない、と泣きながら席をたってしまう女性もいました。裁判のためとはいえ、中国でのつらい体験についてそれ以上聞くことは、彼女の尊厳を冒すような気がしました。
原告達の壮絶な体験は、どれをとっても、日本国憲法の下で、まがりなりにも人権を保障された生活を享受してきた私たちの誰もが体験したことのないものでした。原告達の訴えは、私たちに、戦争がもたらす被害とは何かを端的に教えてくれるものでした。